2012年02月12日

広東へ行き、パーカー博士と会う

19世紀中ごろの香港は天然痘をはじめとする
伝染病が蔓延していた。

ベッテルハイムの息子が種痘(おそらく人痘)の後、
高熱を発し、彼は心配で夜も眠れぬ日が続いた。
しかし、看病の後、息子の症状は回復していく。

「我が子の苦しみのために悲痛な思いで家を後にした。
彼の発疹は融合性の天然痘であることを示している。
彼の泣き声は胸に突き刺さる。
私は教会で子を治し、すべての災難から我らを
守ってくれるよう神に熱心に祈った。」
 (香港、2月22日)

「私たちの愛する子はとても良い夜を過ごした。
彼の痘疹はしだいに乾燥してきた。
神様にどれだけ感謝してよいか。」
 (香港、2月24日)

ベッテルハイムは香港で多くの西洋人と
会い、琉球の情報を集めた。その中で、
琉球に行ったことのあるP・パーカーという
医師の話を耳にする。広東で病院を開いてい
るという。そこで、彼は3月末広東へと向かった。

「朝の礼拝が終わると、博士とともに病院へ行った。
患者などの人が神の言葉を聞きに来ていた。
150人は下らない。
・・・・パーカー博士の病院は多くの希少な手術が
行われていることで著名である。

壁には中国人画家によって描かれた20から30もの
腫瘍の見本が、病人の肖像画とともに掛けられていた。
それらはすべて、そのサイズや箇所が珍しく、
博士によって見事に手術されたものだ。

病院のポーターは、左こめかみから耳と首にかけて
18ポンドほどの腫瘍を持っている。
治癒した後、彼は生涯、無料で病院のポーターとして
働くことを誓った。

病院の名声を上げている多くは、現地人への眼[の手術]である。
博士には2人の進んだ手術の腕(とくに眼科で)を持つ
弟子がいる。しかし驚いたことに彼らは解剖学では
迷信的知識を持ち、博士が行うことを観察する以外は、
理論的学問は持っていないし、福音についても無知である。」
 (広東、3月27日)

P・パーカーは、1835年に眼科病院を設立したが、多くの
中国人患者を治療した。眼科とは言いながら、その他の
外科手術を行ったことが上の文からもわかる。



  

Posted by ドクトルふぁん at 22:43Comments(0)TrackBack(0)琉球史

2012年02月09日

ベッテルハイムの日誌より(香港編)

さて、いよいよベッテルハイムの日誌について
医療活動を中心に拾ってみたい。

資料は、『沖縄県史 資料編21 The Journal and
Official Correspondence of Bernard Jean Bettelheim
1845-51 PartⅠ(1845-1851)近世2 』である。

日誌は香港滞在から始まっている。
開港まもない香港では天然痘が
流行り、多くの死者を出していた。
そこで、ベッテルハイムは家族にも
種痘を施した。

種痘の記事から、

「愛する私の赤ん坊も先週の月曜日に接種を受けたが、
私の家族が同様の問題にならぬよう準備しなければならない。
高熱が出た、その子供の状態は大分よいがまだ発疹で
覆われている。…」(香港、2月10日、p16)

「私たちの愛しい子は高熱でかなりひどい病状にある。
いくつかの潜行性の赤いできものが体に見られる。
彼が天然痘から免れなかった明らかな証拠だ。
広東から来た二人の子供から採取された「もの」
によって接種された者すべてが不幸にも感染した。」
(香港、2月18日、p21)

これらの記事から牛痘ではなく、天然痘に感染した
子供から採取した瘡蓋による「人痘」であったようだ。
しかもベッテルハイムは自らの子供にも接種をさせ、
高熱に苦しむ姿を見て、つらい思いをつづっている。

「この三日間、愛しい子の訴えのため、ほとんど
寝ていない。自然なことだが、夜になると症状は
悪化していく。赤子のうめき声を聞くのは本当に
胸が痛む。とくに患者やおとなしい気質の、
愛しき私たちの子のような場合に。…」
(香港、2月21日、p21)


  

Posted by ドクトルふぁん at 22:26Comments(0)TrackBack(0)琉球史

2012年01月28日

ベッテルハイム最大の貢献は牛痘の紹介

照屋氏は結局、ベッテルハイムの琉球に対する
最大の貢献は牛痘接種を紹介したことであるという。

8年にもおよぶ琉球滞在において、彼が診療した
琉球人は百人くらい。

皮膚病・眼病などを中心に治療を行い、それなりに
効果を示し、人々の信頼を得つつあったことは間違いない。
しかし、それ以上に琉球王府の妨害は徹底していた。

1848年の天然痘の流行によって、
さすがの王府も牛痘接種に期待をかけた。
しかし、この時、沖縄の牛から痘苗を取ることは
できなかった。

1851年、琉球王府はようやく民衆への牛痘接種を
実施することを決断。
ベッテルハイムは漢方医に講習を行い。
接種法を記した冊子も王府に渡された。

このように西洋医が持ち込んだ牛痘技術を漢方医が
習うようになり、これを契機に西洋医学への
評価が高くなるというシナリオは日本にも見られた。

もっとも人痘と牛痘とはワクチンを用いる免疫療法である
という点で根本は同じだ。牛の痘苗を用いることでより
安全性が高まったということである。

牛痘接種だけを強調するのはどうかと思う。

実は19世紀の半ばという時代は医療史において
とても微妙な時代である。

医学史的には、西洋医学がようやく科学として
確立しはじめた時期だ。麻酔技術、消毒法、
止血法など外科学の進歩が著しい。
細菌学としては、1876年にコッホが細菌を
分離し、その病原性が明らかになった。

ただ、医学の世界全般としては、細菌学説は
まだマイナーな考えであり、汚れた空気など
を原因とみなすミアズマ説の方が主流だった。

そしてこの時期に西洋諸国が本格的に
東アジアに進出してくるのである。

ある意味、新たな医療技術の実験場として
東アジアの開港都市は位置づけられたとも
言えよう。

1846年から1854年という時期に琉球に
滞在したベッテルハイム。
彼が有した医学知識とはいかなるもの
だったのか。
これから検討してみたい。




  

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2012年01月09日

患者と病気:照屋善彦氏の研究から(2)

王府の妨害のため、ベッテルハイムの診療所には
ほとんど庶民が来ることはなかった。

しかし、診察は行われた。では、患者は誰か?
そして、どのような病気を治療したのか?

・王府派遣の役人の監視が強化され、地元民の到来なし。
 しかし、通事や筑佐事など役人が診療に訪れた。
 足かけ9年間、診療奉仕を続けた。
 しだいに評判はじわじわ広がる。
 患者は、すべて下級役人だったが、その殆どは皮膚病。
「劣悪な食物、不潔とが皮膚病の主要な原因である。」(照屋、p105)

・「琉球で一年間に五十人を上回る人々を診察した。
 皮膚病がほとんどだった。…白内障、角膜白斑、眼の葡萄膜腫
 などが目立った。…」(照屋、p106)

・王府内のかなりの高官たちが洗顔薬を受けていた。
 眼の病が治癒したことの感謝のしるしに、
 メロン二個を進呈した。(照屋、p108)

・人々は殆どその恩恵に与らなかった。
 ただ、法の目を潜れる少数の役人のみが、
 西洋医学の恩恵に浴することができたのだった。(照屋、p109)

このように診察を受けたのは、役人たちだった。
庶民には受診を禁じながら、自分たちは西洋医学の
優位性を知り、その恩恵に浴した。

病気の種類では、劣悪な衛生環境のため皮膚病が多かった。
また、同様に眼の病気も多かったことがわかる。

ベッテルハイムがこうした病気の治療にあたって
どのような薬を使用したのか、など実際の治療技術や
彼のメンタリティーについて、照屋氏は言及していない。
こうした点について、ベッテルハイムの史料を
再読しながら解明していくつもりである。


  

Posted by ドクトルふぁん at 22:06Comments(0)TrackBack(0)琉球史

2012年01月08日

照屋善彦氏の研究から(1)

ベッテルハイムに関する歴史研究として、
一番まとまっている著作は、
照屋善彦『英宣教医ベッテルハイム:琉球伝道の九年間』
(2004年、人文書院)である。

これは、米国で提出された博士論文の翻訳である。
ベッテルハイムの半生を包括的に研究したもの
である。

この本の中で紹介されている
医療にかかわる記述の要点を挙げておく。

まずは診療所開設まで。

・一八三六年イタリアのバドヴァ大学にて医師資格免許取得。
専門はコレラ病原菌。その後、数年間はエジプト海軍および
トルコ連隊で軍医を務めた。(照屋、p23)

・P.パーカーとベッテルハイムは、医師、宣教師として特に親密になった。
ベッテルハイムは、パーカーから天然痘予防の牛痘接種法を習った。(照屋、p28)
※ピーター・パーカーは広東で眼科診療所を開設した宣教師。

・一九四六年七月六日、「英国人無料診療所」(仁施医局)開設。
診療案内を漢文で王府に提出。無料診療。診療6か条。
一、薬局時間、9時から10時。
二、入院希望者は寝間着類、食器類持参すべし。
三、入院患者は常に清潔を心掛けるべし。
四、院内にては大声、博打、煙草、酒類は厳禁。
五、貧しいものに毎日、食事、給金あり。
六、入院患者は以上の6か条を守ること、等々。(照屋、p103)

  

Posted by ドクトルふぁん at 17:15Comments(0)TrackBack(0)琉球史

2012年01月08日

ベッテルハイムは本当に嫌な奴だったのか?

今ふたたび琉球の歴史が熱い。
ふたたびと書いたのは1993年にも
NHKの大河ドラマで「琉球の風」が
放映され、日本本土で沖縄ブームが
あったからだ。

今回は、池上永一原作の「テンペスト」が
NHK-BSで放映され、映画化もされた。

ある事情で放送は未見だが、原作は
面白く読んだ。

話の舞台は19世紀後半の
琉球王国。

清朝と薩摩との外交関係に加えて、
西洋諸国も様々な形で圧力を加えて
くる。

そして、これまでの琉球史の記述において、
必ず登場する西洋人がベッテルハイムだ。
しかも彼の描かれ方はあまり好いものではない。
好感をもって書かれた文章を見たことはない。

琉球王府は彼の行動を監視しつづけたため、
持てる才能を発揮することができない鬱憤が
あったのかもしれないが。

そうしたベッテルハイムでも医療活動については
高い評価が与えられている。それは、仲地紀仁に
牛痘接種の技術を伝えたというものだ。

中国、香港の医療社会史研究を行ってきた私に
とって、ベッテルハイムという存在は、その当時、
東アジアにやってきた多くの西洋人医療宣教師たちの
群像と重なるものがある。

知識人としての彼らは布教という使命感と同時に
人道的な治療行為、アジアの自然や文化に対する
博物学的な関心を持っていた。

そうした医療宣教師たちの比較を試みることで、
東アジアと西洋文明との出会いの複雑な
あり方を解き明かしてみたい。

このブログでは、ベッテルハイムの史料を琉球史ではなく、
東アジア医療史の文脈から読み解こうというものである。
  

Posted by ドクトルふぁん at 16:57Comments(0)TrackBack(0)琉球史
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